岡崎市議会議員 小田たかゆき blog

岡崎市議会議員(2期目)/1984年生/愛知県岡崎市→岡崎小→南中→北高→イギリス留学後→関西学院大学・大学院(都市計画)→NPO職員→議員秘書/無所属/チャレンジ岡崎・無所属の会/2児の父/どんなことでも連絡はこちらまで → oda.takayuki.office@gmail.com

タグ:雑文

こんばんは。岡崎市議会議員の小田たかゆき(@odatakayuki1984)です。

よくある質問の一つに「議員って普段はどんなことしてるの?」というものがあります。

これはなかなか答えに窮する問いです。たぶん、ですが、各議員それぞれ異なっており、とても一般論というものがなさそうです。

というのも、専業か兼業かにより動きは異なるでしょうし、専業であれ、どのような団体からの支援を受けているかにより異なっているはずだからです。

管見の限りではありますが、大まかに言えば、地縁組織に推されているかたは地域の行事を中心となり、労働組合が出身母体の方はその所属企業に、政党が背景の方はその政党の会合、活動が中心に、と言えそうですが、じゃあ、他のことはやっていないかと言えばそうでもなさそうです。

いわゆる「政治家」の一日を簡単に知るには、「首相動向」や「知事の一日」といった毎日掲載される新聞のベタ記事を暫く眺めてみるのが有益ですが、ご想像のとおり、あのようなスケジュールではないことは確かです。

とはいえ、この問いはよっぽと多くの議員が聞かれるものらしく、以前どこかの自治体議員の方が一日、一週間の大まかなスケジュールを円グラフにして公表していたものを見かけたこともあります。

わたしとしてもどこかで一度、そのようなものを作り説明のための資料にもしようかと思いますが、怠惰な性格ゆえなかなか実行できていないのは反省するところです。

やはりそのような部分も含め、議員という生業を丁寧に説明していく必要がありそうですね。

また、これはどこかで改めてやりたいと思います。

それでは。

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こんばんは。岡崎市議会議員の小田たかゆき(@odatakayuki1984)です。


本日は9月定例会の決算分科会の最終日でした。意見表明の後に採決がおこなわれ、わたしが所属する会派としては、全ての認定議案にたいし可とする表決をいたしました。


さて、以下は雑文ですので、お時間ありましたら読んで頂けたらと思います。

政治家は「まじめ」であることがもとめられるものです。

考えるまでもなく、政治という生業は、いまを生きる人々だけではなく、故人、先人の想いやこれから生まれ、育つ子どもたちまでを含めた、広範囲に及ぶ人々の命とお金をお預かりする職責ゆえ、それは当然のことです。どのような意見を持つのであれ、その手前には大前提として、まじめであることが求められるものです。

ただ、他方で、その「まじめ」さが、政治が送るメッセージの受け手の範囲を狭めているのではないかと思わされることがあります。「まじめ」な議論、発言は特定の人々にしか、すでにその話題に興味を持っている人にしか届くことがないのではという疑問が浮かんでくるのです。

こんな経験はないでしょうか。

友人3人で話しているとします。昨日たまたまテレビで観たバスケットボールの八村塁選手の活躍に触れる。すると偶然、あなた以外の2人は異常にスラムダンクに詳しいらしく、話題がマニアッックな「スラムダンク」の話しへとずれていきます。2人はスラダンの最終話の終わり方はあの方向でよかったのかどかについて「まじめ」に議論をします。それを聞くあなたは、2人がなんのことを話しているのかわからず、「シラけて」しまい、仕方がないので手元にある携帯でだらだらとfacebookでも眺めている、というような経験です。

「まじめ」な議論はまじめであればあるほど受け手を限定します。

ましてや政治が扱う話題のどうしようもない「まじめ」さは、往往にして広範囲のひとびとへ伝えたいと願う送り手の意志にはんし、受け手を限定してしまう可能性を孕んでいます。

そこで、ときに、その危険性を回避するために、政治はまじめに「ふまじめ」な表現、レトリックを使用することを選択します。

言葉を噛み砕き、わかりやすい表現に変え、ときに不謹慎な例え話しを交え、感情を逆撫でするような表現を使用することで、いつもは届くことのない彼に、いつもはシラけて議論に加わってくれそうもない彼女へ「あなたに関係することですよ」というメッセージを送ろうとするわけです。

これはときに必要でもあり、なにより議論に加わる、加わることができる人々の輪を広げるという意味で素晴らしいもののはずです。

ただそのようなメッセージは、少なくない人々に「人の命がかかってるんだよ」「真剣にやれ」「まじめにやれ」という辛辣を伴うことになります。このような批判はともっともなものです。多くのひとの生活、人生がかかっているからです。

ただこのあまりの「正論」がときに、政治の発言を「まじめ」なものばかりにすることになり、結局は少数の「政治好き」「議論好き」の人々ばかり小さな共同体に縮小していってしまう可能性があるはずです。

難しい塩梅です。

議論の輪の外側にいるひとびとへメッセージを届けるには「ふまじめ」である必要があるその一方で、ときに強い抵抗を内部から浴びることになります。まじめにやれば、外側には届かず、ふまじめにやれば、内側から刺される。

この間のどこかで表現することが必要だという話しです。

この塩梅は、なんなのか。

センス

という身も蓋もない話しなのですが、これをぐだぐだ書いてきたのは、感のいい方はお気づきでしょうが、小泉進次郎環境大臣の「気候変動問題をセクシーに扱うべき」という発言が一部のメディア、SNSで耳目を集めていたからです。

賛否あれど、批判のおおくは「まじめにやれよ」というものが多い気がします。もちろん、環境問題により、現実的に苦しんでいるひとびとがおり、海外ではこの世界を憂いる若者が大胆な行動でそれを訴えている現状があることもわかっているつもりです。

その前提はもちろんあるのですが、それでも環境問題を憂いるからこそ、ときに「ふまじめ」な発言で、密かな加害者であるわたしたちに届ける必要があり、それがあの発言だったのではないかと(好意的に?!)解釈できるのではないかと考えるものです。

大臣という立場だから慎むべきだというご意見もあれば、その立場だからこそ与えることができる影響力もあるものだといえるわけで、今回のケースでいえばわたしは、後者の意見に与しようとおもっています。

ともあれ、こんなことをここで「まじめ」にしか語れないこの矛盾に嫌気がさすものですが。

難しいものですね。

それでは。


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令和元年初日。

天皇制とは、象徴とはなんなのか。いかにこれを継承していくべきなのか。不可視の剣と玉と鏡が時代を巡り一本の線としてこの国の中心に位置してきたことなど、昨日、今日と考えさせられることが本当に多かったような気がしています。

わたしの浅はかな知識では、天皇制は立憲君主制であり、権威と権力の分離による統治システムを敷くものを指していると考えています。

歴史的に考えると、これが日本人にとても心地いい体制だったから現在まで生き残っていると考えることが可能です。

というのも、日本は権威と権力が重なるとどうも不都合なことが起こります。

例えば、戦前の国家体制がそうでした。

いろいろな解釈はあるのでしょうが、外形的には権威と権力が「総攬」という文言の上で合致したのが大日本帝国の国家体制だと考えられます。

だから、やはり分離しといた方がいいわけですが、どれくらい分離した方がいいのか。一応、憲法にはこの距離感について記載がされています。

1条から8条ですね。

ただ、これは理念的なものです。どうにでも解釈できる部分があります。だから、答えというものがありません。ただ現実的な距離感は力学的な問題なはずです。

権威を取り込みたい権力側と、権力とは引き離しておいた方がいいと考えある国民の良心のせめぎ合いで決まります(たぶん)。

逆に考えると戦前と戦後を繋ぐ国家の物語は権威と権力の二つの中心点の親疎を描くことで可能になるとも思っています。

8.15に切断線を見るのではなく、二つの中心点の力学的な関係性が変化したとみればいいのではないか。

なんとなく、そんな気がしています。

うん。

となれば、やはり天皇制の永続性をいかに担保するかは考えておかなければならないと思うのです。

それこそ、明治維新による近代化、太平洋戦争、敗戦、元号でいう明治、大正、昭和、平成、令和そしてその先を一つに繋ぐ糸は天皇制とときどきの権力の関係性と捉えることでわたしたちはひとつの物語を共有する「日本人」となるからです。

といいつつ、わたしの知識ではどうしようもありませんが、少しづつでも考えていかないとな〜と思うのです。

取り留めもない雑文で失礼しました。

令和元年なので少し先のことに思いを馳せつつ。

それでは、また。

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