サッカーを語ると熱くなる。
これは昔からどうしてもそうなってしまうのですが、今日はそれもそのはずなんです。
昨日、「第26回岡崎フレンドマッチサッカー大会」 に来賓としてお招きを頂きました。この大会。実はおよそ20年前に私も出場したことのある思い出の大会で、まさかあの頃は来賓として自分が招いて頂ける日がくるとは想像もしていなかったものです。
で、たまにはサッカーの話を。
サッカーとは不思議なスポーツです。
現在、様々な国で行われているスポーツの多くは欧州発のものが多く、周知の通りその中で爆発的に普及しているのがサッカーです。欧州発のスポーツは点数が入ることが前提とされ、合理的な動きをすることがそれへの近道となります。少し小難しく考えると近代という思考方法を前提としている競技だと考えられます。
その中でサッカーは異端児として存在しています。
その理由は大きく2点あります。まず、ピッチ上で各選手の持つ自由度が高いということ。そして、足でボールを扱うという他のスポーツとの違いゆえに(つまり「手」を使えないという)不確定性が高いところです。
一つ目に関しては例えば、守備においてどれだけフォーメーションを考え、システム的な合理性を追求しても、個の自由な創造力と技術において、いとも容易く状況を打開をされてしまいます。また限られた時間の中で刻一刻と状況が変化するピッチ上においては、誰に命令されることもなく(そんな時間もななく…)自らの頭で考え、数ある選択肢の中から最適なものを選択することが求められます。
二つ目の不確定性というのは、90分の試合において点数がほとんど入らないことが象徴的です。スコアが0-0、1-0、2-1などの試合がざらにありますよね。これは言い換えれば、失敗することが状態的なスポーツであるということです。パスミス、シュートミス、ピッチ上での立ち位置のミス、試合中のほとんどは失敗であり、だからこそ点数が入らないのです。そして、この失敗の根源的な原因は「足でボールを扱う」ことからきます。
わかり易く比較するには「野球」を思い出して頂ければいいのではないかと思います。手を使い、個人の自由度は制限されています。
改めて個人における自由度の高さ。足でボールを扱うことの不確実性。この2点が例外的にサッカーを熱狂的なスポーツにしている要素です。
そして、だからこそ世界にこれだけ普及したのではないかとも考えられるのです。先ほども言いましたが、多くのメジャーな競技は近代的な思想を背景としたルールの下でのプレイが求められます。となると、やはり欧米的な思想に馴染んだ個人の方が有利となり、結果、先進国が強いといういささか身も蓋もない話になってしまいます。
が、サッカーは先の2点が要因となり、近代的な思想の外にいる選手を生み出し、私たちを魅了することがあります。いくらでも名前を挙げられますが、それはブラジルのペレであり、アルゼンチンのマラドーナであり、ナイジェリアのオコチャであり、コロンビアのバルデラマでありと、彼らはピッチ上での創造性の高さと、巧みなボール捌きで世界を熱狂させたのです。
個人における自由度の高さと、足でボールを扱う不確実性を制するものがレジェンンドを生み出すんですね。
さて、昨日の開会式であまりにも興奮し、今日はフレンドマッチの決勝を見に行きました。少年サッカーのレベルが向上していることを感じるとともに、周囲の大人の方が熱くなっているという昔とかわらないグランドを眺め、サッカーの普及に改めて貢献していきたいと思いを新たにしました。
また、昔から変わらぬ方々が運営にあたられ、加えてその父母さんたちの熱い支援があっての大会だと改めて感じ頭が下がる思いでした。本当にご苦労様でございました。
明日からは、定例会の委員会が続きます。私は明日の福祉病院委員会で質疑を行いますので、そのことはしっかりと書かせて頂きます。
それでは、また。
これは昔からどうしてもそうなってしまうのですが、今日はそれもそのはずなんです。
昨日、「第26回岡崎フレンドマッチサッカー大会」 に来賓としてお招きを頂きました。この大会。実はおよそ20年前に私も出場したことのある思い出の大会で、まさかあの頃は来賓として自分が招いて頂ける日がくるとは想像もしていなかったものです。
写真1 パンプレットも懐かしい黄色
運営側の方にも同世代で名を馳せた選手の親父さんたちが関わっており、懐かしい話で花が咲くなどサッカーというスポーツに関わってきて本当によかったなと感じる瞬間でした。で、たまにはサッカーの話を。
写真2 県営グランドとしては最後となるピッチ
サッカーとは不思議なスポーツです。
現在、様々な国で行われているスポーツの多くは欧州発のものが多く、周知の通りその中で爆発的に普及しているのがサッカーです。欧州発のスポーツは点数が入ることが前提とされ、合理的な動きをすることがそれへの近道となります。少し小難しく考えると近代という思考方法を前提としている競技だと考えられます。
その中でサッカーは異端児として存在しています。
その理由は大きく2点あります。まず、ピッチ上で各選手の持つ自由度が高いということ。そして、足でボールを扱うという他のスポーツとの違いゆえに(つまり「手」を使えないという)不確定性が高いところです。
一つ目に関しては例えば、守備においてどれだけフォーメーションを考え、システム的な合理性を追求しても、個の自由な創造力と技術において、いとも容易く状況を打開をされてしまいます。また限られた時間の中で刻一刻と状況が変化するピッチ上においては、誰に命令されることもなく(そんな時間もななく…)自らの頭で考え、数ある選択肢の中から最適なものを選択することが求められます。
二つ目の不確定性というのは、90分の試合において点数がほとんど入らないことが象徴的です。スコアが0-0、1-0、2-1などの試合がざらにありますよね。これは言い換えれば、失敗することが状態的なスポーツであるということです。パスミス、シュートミス、ピッチ上での立ち位置のミス、試合中のほとんどは失敗であり、だからこそ点数が入らないのです。そして、この失敗の根源的な原因は「足でボールを扱う」ことからきます。
わかり易く比較するには「野球」を思い出して頂ければいいのではないかと思います。手を使い、個人の自由度は制限されています。
改めて個人における自由度の高さ。足でボールを扱うことの不確実性。この2点が例外的にサッカーを熱狂的なスポーツにしている要素です。
そして、だからこそ世界にこれだけ普及したのではないかとも考えられるのです。先ほども言いましたが、多くのメジャーな競技は近代的な思想を背景としたルールの下でのプレイが求められます。となると、やはり欧米的な思想に馴染んだ個人の方が有利となり、結果、先進国が強いといういささか身も蓋もない話になってしまいます。
が、サッカーは先の2点が要因となり、近代的な思想の外にいる選手を生み出し、私たちを魅了することがあります。いくらでも名前を挙げられますが、それはブラジルのペレであり、アルゼンチンのマラドーナであり、ナイジェリアのオコチャであり、コロンビアのバルデラマでありと、彼らはピッチ上での創造性の高さと、巧みなボール捌きで世界を熱狂させたのです。
個人における自由度の高さと、足でボールを扱う不確実性を制するものがレジェンンドを生み出すんですね。
動画1 「マラドーナ」こそだと今でも信じてます
さて、昨日の開会式であまりにも興奮し、今日はフレンドマッチの決勝を見に行きました。少年サッカーのレベルが向上していることを感じるとともに、周囲の大人の方が熱くなっているという昔とかわらないグランドを眺め、サッカーの普及に改めて貢献していきたいと思いを新たにしました。
また、昔から変わらぬ方々が運営にあたられ、加えてその父母さんたちの熱い支援があっての大会だと改めて感じ頭が下がる思いでした。本当にご苦労様でございました。
写真3 決勝を前に整列する両陣営。緊張ですね。
写真4 トーナメント表
明日からは、定例会の委員会が続きます。私は明日の福祉病院委員会で質疑を行いますので、そのことはしっかりと書かせて頂きます。
それでは、また。