こんばんは。岡崎市議会議員の小田たかゆき(@odatakayuki1984)です。
本日は9月定例会の決算分科会の最終日でした。意見表明の後に採決がおこなわれ、わたしが所属する会派としては、全ての認定議案にたいし可とする表決をいたしました。
さて、以下は雑文ですので、お時間ありましたら読んで頂けたらと思います。
政治家は「まじめ」であることがもとめられるものです。
考えるまでもなく、政治という生業は、いまを生きる人々だけではなく、故人、先人の想いやこれから生まれ、育つ子どもたちまでを含めた、広範囲に及ぶ人々の命とお金をお預かりする職責ゆえ、それは当然のことです。どのような意見を持つのであれ、その手前には大前提として、まじめであることが求められるものです。
ただ、他方で、その「まじめ」さが、政治が送るメッセージの受け手の範囲を狭めているのではないかと思わされることがあります。「まじめ」な議論、発言は特定の人々にしか、すでにその話題に興味を持っている人にしか届くことがないのではという疑問が浮かんでくるのです。
こんな経験はないでしょうか。
友人3人で話しているとします。昨日たまたまテレビで観たバスケットボールの八村塁選手の活躍に触れる。すると偶然、あなた以外の2人は異常にスラムダンクに詳しいらしく、話題がマニアッックな「スラムダンク」の話しへとずれていきます。2人はスラダンの最終話の終わり方はあの方向でよかったのかどかについて「まじめ」に議論をします。それを聞くあなたは、2人がなんのことを話しているのかわからず、「シラけて」しまい、仕方がないので手元にある携帯でだらだらとfacebookでも眺めている、というような経験です。
「まじめ」な議論はまじめであればあるほど受け手を限定します。
ましてや政治が扱う話題のどうしようもない「まじめ」さは、往往にして広範囲のひとびとへ伝えたいと願う送り手の意志にはんし、受け手を限定してしまう可能性を孕んでいます。
そこで、ときに、その危険性を回避するために、政治はまじめに「ふまじめ」な表現、レトリックを使用することを選択します。
言葉を噛み砕き、わかりやすい表現に変え、ときに不謹慎な例え話しを交え、感情を逆撫でするような表現を使用することで、いつもは届くことのない彼に、いつもはシラけて議論に加わってくれそうもない彼女へ「あなたに関係することですよ」というメッセージを送ろうとするわけです。
これはときに必要でもあり、なにより議論に加わる、加わることができる人々の輪を広げるという意味で素晴らしいもののはずです。
ただそのようなメッセージは、少なくない人々に「人の命がかかってるんだよ」「真剣にやれ」「まじめにやれ」という辛辣を伴うことになります。このような批判はともっともなものです。多くのひとの生活、人生がかかっているからです。
ただこのあまりの「正論」がときに、政治の発言を「まじめ」なものばかりにすることになり、結局は少数の「政治好き」「議論好き」の人々ばかり小さな共同体に縮小していってしまう可能性があるはずです。
難しい塩梅です。
議論の輪の外側にいるひとびとへメッセージを届けるには「ふまじめ」である必要があるその一方で、ときに強い抵抗を内部から浴びることになります。まじめにやれば、外側には届かず、ふまじめにやれば、内側から刺される。
この間のどこかで表現することが必要だという話しです。
この塩梅は、なんなのか。
センス
という身も蓋もない話しなのですが、これをぐだぐだ書いてきたのは、感のいい方はお気づきでしょうが、小泉進次郎環境大臣の「気候変動問題をセクシーに扱うべき」という発言が一部のメディア、SNSで耳目を集めていたからです。
賛否あれど、批判のおおくは「まじめにやれよ」というものが多い気がします。もちろん、環境問題により、現実的に苦しんでいるひとびとがおり、海外ではこの世界を憂いる若者が大胆な行動でそれを訴えている現状があることもわかっているつもりです。
その前提はもちろんあるのですが、それでも環境問題を憂いるからこそ、ときに「ふまじめ」な発言で、密かな加害者であるわたしたちに届ける必要があり、それがあの発言だったのではないかと(好意的に?!)解釈できるのではないかと考えるものです。
大臣という立場だから慎むべきだというご意見もあれば、その立場だからこそ与えることができる影響力もあるものだといえるわけで、今回のケースでいえばわたしは、後者の意見に与しようとおもっています。
ともあれ、こんなことをここで「まじめ」にしか語れないこの矛盾に嫌気がさすものですが。
難しいものですね。
それでは。
-------
Line公式アカウントはじめました〜!!
日々の情報はこちらでも発信しています。
↓ここを押してくださいね〜
小田たかゆき@岡崎市議会議員@odatakayuki1984おはようございます。駅前からのスタート。朗らかな朝でした。さて、今日は9月議会の決算特別委員会の最終日となり、各会派よ意見表明がおこなわれます。
2019/09/24 07:59:59
本日は9月定例会の決算分科会の最終日でした。意見表明の後に採決がおこなわれ、わたしが所属する会派としては、全ての認定議案にたいし可とする表決をいたしました。
さて、以下は雑文ですので、お時間ありましたら読んで頂けたらと思います。
政治家は「まじめ」であることがもとめられるものです。
考えるまでもなく、政治という生業は、いまを生きる人々だけではなく、故人、先人の想いやこれから生まれ、育つ子どもたちまでを含めた、広範囲に及ぶ人々の命とお金をお預かりする職責ゆえ、それは当然のことです。どのような意見を持つのであれ、その手前には大前提として、まじめであることが求められるものです。
ただ、他方で、その「まじめ」さが、政治が送るメッセージの受け手の範囲を狭めているのではないかと思わされることがあります。「まじめ」な議論、発言は特定の人々にしか、すでにその話題に興味を持っている人にしか届くことがないのではという疑問が浮かんでくるのです。
こんな経験はないでしょうか。
友人3人で話しているとします。昨日たまたまテレビで観たバスケットボールの八村塁選手の活躍に触れる。すると偶然、あなた以外の2人は異常にスラムダンクに詳しいらしく、話題がマニアッックな「スラムダンク」の話しへとずれていきます。2人はスラダンの最終話の終わり方はあの方向でよかったのかどかについて「まじめ」に議論をします。それを聞くあなたは、2人がなんのことを話しているのかわからず、「シラけて」しまい、仕方がないので手元にある携帯でだらだらとfacebookでも眺めている、というような経験です。
「まじめ」な議論はまじめであればあるほど受け手を限定します。
ましてや政治が扱う話題のどうしようもない「まじめ」さは、往往にして広範囲のひとびとへ伝えたいと願う送り手の意志にはんし、受け手を限定してしまう可能性を孕んでいます。
そこで、ときに、その危険性を回避するために、政治はまじめに「ふまじめ」な表現、レトリックを使用することを選択します。
言葉を噛み砕き、わかりやすい表現に変え、ときに不謹慎な例え話しを交え、感情を逆撫でするような表現を使用することで、いつもは届くことのない彼に、いつもはシラけて議論に加わってくれそうもない彼女へ「あなたに関係することですよ」というメッセージを送ろうとするわけです。
これはときに必要でもあり、なにより議論に加わる、加わることができる人々の輪を広げるという意味で素晴らしいもののはずです。
ただそのようなメッセージは、少なくない人々に「人の命がかかってるんだよ」「真剣にやれ」「まじめにやれ」という辛辣を伴うことになります。このような批判はともっともなものです。多くのひとの生活、人生がかかっているからです。
ただこのあまりの「正論」がときに、政治の発言を「まじめ」なものばかりにすることになり、結局は少数の「政治好き」「議論好き」の人々ばかり小さな共同体に縮小していってしまう可能性があるはずです。
難しい塩梅です。
議論の輪の外側にいるひとびとへメッセージを届けるには「ふまじめ」である必要があるその一方で、ときに強い抵抗を内部から浴びることになります。まじめにやれば、外側には届かず、ふまじめにやれば、内側から刺される。
この間のどこかで表現することが必要だという話しです。
この塩梅は、なんなのか。
センス
という身も蓋もない話しなのですが、これをぐだぐだ書いてきたのは、感のいい方はお気づきでしょうが、小泉進次郎環境大臣の「気候変動問題をセクシーに扱うべき」という発言が一部のメディア、SNSで耳目を集めていたからです。
賛否あれど、批判のおおくは「まじめにやれよ」というものが多い気がします。もちろん、環境問題により、現実的に苦しんでいるひとびとがおり、海外ではこの世界を憂いる若者が大胆な行動でそれを訴えている現状があることもわかっているつもりです。
その前提はもちろんあるのですが、それでも環境問題を憂いるからこそ、ときに「ふまじめ」な発言で、密かな加害者であるわたしたちに届ける必要があり、それがあの発言だったのではないかと(好意的に?!)解釈できるのではないかと考えるものです。
大臣という立場だから慎むべきだというご意見もあれば、その立場だからこそ与えることができる影響力もあるものだといえるわけで、今回のケースでいえばわたしは、後者の意見に与しようとおもっています。
ともあれ、こんなことをここで「まじめ」にしか語れないこの矛盾に嫌気がさすものですが。
難しいものですね。
それでは。
-------
Line公式アカウントはじめました〜!!
日々の情報はこちらでも発信しています。
↓ここを押してくださいね〜
コメント
コメント一覧
私が暮らしたことがある大阪や名古屋には、
公園に高い塀(ネット)やボールウォールなどがあり、
大人同士でも本気で遊べる公園がありました。
(公園というより運動公園というのでしょうか)
今は騒音問題等で難しい時代になりましたが、
駅前の少々騒がしくても許される商業地域に、
大人が本気で遊べる公園が欲しいですね。
大人が本気で遊ぶところを見て、
子どもたちは真剣に取組むことを学ぶとも思うのです。
(少し大人本位ですが)
軽いスポーツを通して地域住民や先生と通じ合う。
そんなことを夢見ています。
(JR岡崎駅界隈で)
(参考)
〇10代の子どもたちや大人も遊べる公園を〜!
https://ameblo.jp/yukohigashi/entry-11819514489.html