政府が2019年度の「子ども・若者白書」を閣議決定をしました。
報道によると、当報告書では、はじめて「ひきこもり」が特集されたとされています。
特集2 長期化するひきこもりの実態
https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/r01honpen/pdf/b1_00toku2.pdf
特集の中身自体は、ひきこもりの推計値やひきこもりの長期化の実態、そして、各年代に偏りなくみられる状態であることの指摘など、管見ながら専門家がこれまで詳らかにしてきたことに加える目新しいものは何もないように思う(たぶん)。

が、それとは別に、自治体の「ひきこもり」支援の推進という意味では重要です。

どういうことでしょうか。

少し話が飛びますが、行政は常にあらゆる部署があらゆる課題を抱えそれに取り組むことを強いられており、加えて当然のことですが、内部的な制約と外部的な制約を受けています。

その環境下で、どこのどの政策のプライオリティーを高めるかは、さまざまな要因はあるが、議会側からみると、事実の変更と政治判断がおおきく影響しているように映ります。

事実の変更とは、政策作成の前提条件の変更であり、なにかをするための背景の変化と言えるものでもあり、具体的にはデータの変更、あたらしい調査の結果など、事実が社会的時系列的に変化することです。

客観的に見てだれもが納得ができる事実は、「○○を俎上に載せる」の比喩でいえば、「まな板」をつくることであり、この共通のまな板の上で、なにかを調理することを可能とするものです。あとは煮るなり焼くなりとなるのですが、少なくとも議論をするには共通の土台が必要であり、事実の変更はまな板の形状が変化することを意味します。

もうひとつは政治判断です。わかりやすいところで言えば首長の決断があります。首長が選挙時に掲げた政策のプライオリティーが上がることは想像に難くないわけですが、ただ、これだけではなく、世論の高まりや議会からの圧力、また行政内部における力関によっても順逆が変わるはずです。

換言すれば、情(政治決定)と理(事実)により政策は変更するということです(当たり前ですね…)。

余談ですが、いわゆる革新といわれる政治勢力は「理」に重きを置き、保守勢力は「情」に重きを置く傾向があります。ことの性質上、革新とは理によるあるべき社会を描くことを求められます。対する保守は論理への盲従を戒め、共同体が受け継いできた慣習、規範を重視します。

常に革新は社会への反抗、抵抗、否定を宿命づけられ、それを承け保守が形作られます。その逆はありえません。政治は、一方の、理の持つ冷酷さを甘受する革新と、他方の情という明文化されることなき慣習を尊ぶ保守の、この絶えざる運動により螺旋状に進んできたはずです(たぶん)。

なんか全然違う話しが差し込まれてしまいましたが、冒頭で今回の記載が重要だと述べたるたのは、政策が具体化していくには、情理が推移することが大切であり、たとえ学術的な新規性がなくとも、内閣府が発表するなにかはこの二つの要素に大きな影響力を与える可能性があると、すくなくともわたしは信じているからです。

現状岡崎市がおこなっている「ひきこもり」対策はけっして十分とはいえません。それをいかに動かしていくかをここ最近考えているわけです。

上記のような変化がありました。だとすれば、これを契機にあらためて、情理を尽くし説得していきたいと思う次第です。

それでは、また。



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