こんばんは。

岡崎市議会議員の小田たかゆき(@odatakayuki1984)です。

さて、今日はいつも雰囲気とは別な感じで書いてみました。なんとなく取り扱う話題ゆえにです。

どぞ。

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ひきこもりがあらためて注目されている。

5月28日に川崎市でおきた凄惨な事件の容疑者が51歳の無職男性であり、親族が幾度も市に相談へいっていたことがその後報道された。また、直後におきた元農水省の事務次官が息子を殺めた事件では、川崎市の事件を恐れたことがその犯行理由としてあげられおり、ひきこもりを抱える家族の苦悩が社会に知られることとなった。

この事件以来、ネットを中心にひきこもり=犯罪者予備軍であるとのレッテルが貼られている。

もちろんそのようなことは事実無根であるが、予想以上にこの言説が流布し、当事者団体をはじめ少なからずの識者が、この謂れなき中傷が当事者を含めた関係者を苦しめていることに警鐘を鳴らしていることに、わたしたちはもっと耳を傾けていかなければならないと思う。

往々にして謂れなきレッテルが貼られるのは、顔が見えないものについてであることが多い。べつにナチスや在日の例をだすまでもなく、会ったことも、話したこともない人にレッテルを貼り、暴力を振るうことをだれもが経験しているのではないだろうか。

今回のひきこもりの方々への謂れなき中傷も顔が見えないことに起因していると考えている。

ひきこもりはその定義上、家族以外の人が出会う機会はそう多くはないはずであり、顔が見えない存在だからだ。

だとしたら、せめて「顔」を見るように努力しなければならない。当事者の経験談や、支援者が書いた本はいくらかあるらしいのだが、まずは、御誂え向きの特集がNHKニュースに載っている。
当事者やその家族、また、ひささか一方的な意見まで、ざっと読むだけでも、そこにはすぐに解決しがたい苦悩があり、苦痛があり、もがいている方々がいることがわかる。

凡庸な結論だが、わたしたちは顔の見えないものにたいしてどこまでも暴力的に振舞うことができる。ただ、その暴力を抑制するのは顔を見つめることにしかない。

もうひとつ。

今回の事件をうけて評論家の東浩紀氏がこう述べている。
独身にも無職にもさまざまな事情があるし、ひきこもりを抱えて悩む家族も多い。そこには当事者だけの問題ではない、社会全体が抱える歪みが集約している。悪者探しの欲望に駆られて、彼らへの共感を断ち切ることがあってはならない。
レッテルを貼ることは、未知のものを既存の枠組みに流し込み安心する手段でもある。だからこそ、わたしたちはこれをやめることができなのだが、「共感」は未知のものを未知のままに向き合うときにこそ生まれるはずだ。

レッテルを貼ることは急いで家に引っ込むことにしかならない。

気力がいることだが、外へ出て、未知のものと向き合うこと。ひきこもりの当事者、関係者の声に耳を傾け、共感すること。それが、社会全体の歪みを少しでも補正することにつながるのだ。

その共感が行政を動かす力になることは言うまでもないだろう。


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