大人になること、成熟することの難しさについて考えることがあります。

そもそも大人とはなんなのか。成熟とはどういうことなのか。その社会的基準、物差しを指し示すことさえ難しいものです。

そう言っていてもしょうがないので、前に進めますが、どうしたら大人になれるか。どうすれば成熟できるのか。管見ながら、これは近代という時代をいきるわたしたちに課せられた重要な課題の一つです。

小説家、批評家、精神分析家、社会学者、政治家から教育者、市井に暮らすありとあらゆる人が考え、実践し、成熟するための仕組みをいかに社会に実装できるかを考え挫折してきた歴史があります。

なぜ挫折するのでしょうか。

断定するのを許していただければ、イノベーションを宿命づけられた社会は父を否定するからです。イノベーションは既存の枠組みの創造的破壊であり、それは既存のルールの否定を意味します。そのルールを手探りで構築してきた父祖達の否定を意味するからだと言われています。

父殺しを宿命づけられた社会をいきるわたしたちは、子どもでいること、大人になることを否定することが、生存戦略上優れた戦略になる、と。

はい。なんの話しをしていのかわからないわけですが、ここ最近、そういうことを周囲からちらほらと聞くことが増えたからなのです。

あいつはなかなか成長しない、という類の話しを、です。

そういうお話を聞くたびに、個人の問題なんだろうけど、他方で、社会的な問題だから難しいと考え言葉を飲み込むことが多いものです。

個人の問題なのか、社会の問題なのか。たぶん両方なんでしょうが。

さらにややこしいのは、現代は父の不在が、殺す父さえ消失した社会の現状が叫ばれてもいるからなのかもしれません。これは象徴的な話しではなく、リアルに家に帰っても父不在の家庭がごまんとあることからも経験的に推察される事態です。

否定すべき父不在の家庭、社会においては母子の密着の濃度が上がり、他者からの介入を難しくするとともに、その閉塞感の中で窒息しそうな関係性が生み出されます。

他者へと、社会へと振り向くことを困難にするこの母子関係に介入することは、二人の関係がどこかで臨界点を迎えるまでは難しく、そのぶん成熟の過程を後ろ倒しにすることを迫られます。

じゃあ、どうするのか。

たぶん、見守りつつ、その臨界点を見極め介入する、手を突っ込む以外に方法はないのではないでしょう。

介入するタイミングもその手段もこれという答えがあるのものでもありません。密着した母子、母娘は定義上、第三者の不在を意味します。それは、どれほど他者が手を差し伸べても、その耳を、その顔を振り向けることがない二者関係だからです。

たぶん、ですが。

気長に、かつ機を見て迅速に。

結局、あたりまえのことですが、子どもの成長を見守る当事者に強いる忍耐のことを「大人」という状態と呼びなしているのかもしれません。

さて、こう書いてきたわたしが大人なのか、成熟しているのか、それはわかりません。そうだとはなかなか思えません。が、少なくともそうありたいとは思っている次第です。

だからこういう話しを書くのは憚れられるのですが、そういう日もありますよね。

どうか、気長に見守ってあげてください。

それでは、また。



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