建国記念の日は「戦後」を考える一つの契機なのではないでしょうか。
2019-02-11 10.35.11
戦後は「ねじれ」をねじれとして感じられない、その状態のことである、そう定義したのは加藤典洋氏だったように思います。

「わたし達はこれを「押しつけられ」、その後、この価値観を否定できない、と自分で感じるようになった。わたし達は説得された」

氏が指摘したのは、憲法をはじめとする、自由や民主主義という現在の価値観は残念なことに押し付けられたものであるにも関わらず、わたしたちはそれを説得され、受け入れた、その厳然たる事実に向き合うことが難しい、そのことだったように思うのです。

抽象的でわかりにくいので、あえてめちゃめちゃ表現悪く言えば、どうかこの部分だけを切り取らないで頂きたいのですが、それは、強姦魔を愛するという悲劇とも喜劇ともいえる倒錯、この「ねじれ」を抱え込んでいる。にも関わらず、それがなかったかのように、ねじれがないかのようにわたしたちは考えようとしている、嫌なものから目をそらすようにしている、これが戦後ではないかといみじくも述べていたと解釈できます。

そのとおりではないでしょうか。

だからこそ、もう一度ナショナルヒストリーを取り戻すこと、日本の来歴を編み直すことが、必要なはずです。

抽象論ではだめなのであえていえば自主憲法の制定、そしてあえて幻想と理解しつつも起源を設定すること。それがいまを生きるわたしたちに課されているように思います。

加藤氏が述べるように、「三百万の自国の死者への哀悼をつうじて二千万の死者への謝罪へといたる道」を模索しなければならないと、思うものです。

分不相応なことを述べてしまいました。ご容赦ください。

それでは、また。