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膝を付き合わせ話すことは難しいことです。

たまにふらっと立ち寄る、いわゆる町のクリーニング屋さん。

ここのおばちゃんは、お喋りが大好きで、いつも元気なことこの上ないのですが、ふとこんなことを呟かれました。

いろんな人が来るけど、みんな忙しいのよね~。すぐに来て、去っていくのよ

だれか特定の人について話しているのではないからこそ、なんだか心に刺さるものがありました。

仕事柄、多くの人に会うことが仕事です。

ともすると、人に会うこと、それ自体が目的となってしまう側面があります。

つぎ、つぎ、とまるでなにかのに追われているかのように、ただ数をこなすことが目的になっていくのです。

それは受け手に伝わります。

このおばちゃんが感じたように、です。

こういう時は手持ちの言葉ではなかなか難しい局面だろうなーと、ふと思い出したのはカントの言葉でした。

「汝の人格においても、あらゆる他者の人格においても、人間性を単なる手段としてではなく、つねに同時に目的として扱うように行為せよ」

他者を手段としてだけではなく、目的としても扱おうよ。出会った人をなにかの手段として扱うだけではなく、それと同時に、顔と顔を付き合わせて対面しようよ。

ということだと思います。

その通りだな〜と思うわけですが、いま書いていて、あらためてカントという人は偉いな〜というか、大人だな〜と膝を打ったのですが、それは、相反することを同時にやれと迫っていることです。

「手段としてではなく、つねに同時に目的として」

かりにこれを「手段としてではなく、目的として行為しろ」と述べていたとすれば、いやいや〜それは土台無理な話しだよね、と一蹴され、後世には残らなかったはずです。

カントは、そうではなく、他者を「手段と同時に目的」として行為しよう。 売り手と買い手として向き合っていても、それと同時に、熊さん八つぁんとしての側面も持つようにしようと言っていたのです(たぶん)。

みんな忙しい。だからこそ、就労体系や法体系など、構造的な変化が必要なことはもちろんその通りです。

ただ、時間がかかる部分があります。

とりあえず、いまここからできそうなことは、たとえ忙しくとも、数をこなすだけでなく、それと同時に、向き合うこと、この両義的な要請の裡でもがき、あがくことにあるのではないか。

そう、クリーニング屋のおばちゃんと会話しながら思った次第です。

どうか、この話しは洗い流していただければ幸いです。